郷土博物館では、大展示室にて常設展示「かわちのくに」展を開催しています。
本展示では、考古資料・歴史資料をはじめ市民の方々から寄贈していただいた民具資料などを東大阪市域に人々がくらしはじめた約2万年前から昭和時代まで時代順に配置しています。
大展示室では、実物資料・レプリカなど約800点のほか、写真・図パネル100点、さらに無料の展示解説シートによって東大阪の歴史を知ることができます。
ロビーには、図書類をはじめ、クイズ・体験コーナーを用意しています。
窓口では、これまでに開催した特別展示の図録や関連図書の販売もしております。
旧石器時代
旧石器時代の割ってつくる石器は、奈良県と大阪府の境にある二上山でとれるサヌカイトと呼ばれる石が使われています。
サヌカイトは、割ると鋭い刃をつけることができます。
上の写真の左および中央の4点は、石切神社付近にある神並遺跡からみつかったサヌカイト製のナイフ形石器です。
右は、生駒山の中腹にある草香山遺跡からみつかった槍の先に取り付けた有舌尖頭器です。
縄文時代
今から約1万2000年前にはじまる縄文器時代の人々は、弓矢や土器を手にいれ、豊かな自然のめぐみのなかでくらしていました。
常設展示では、生駒山の裾野にある布市町からみつかったクジラの骨、日下遺跡の墓、鬼虎川遺跡の貝塚をはじめ、大阪府の指定文化財になっている馬場川遺跡の土偶などをみることができます。
縄文人もみなさんが来館されるのを楽しみに待っています。
左上は、埋蔵文化財センターの地下に眠っている縄手遺跡からみつかった縄文土器です。
平底と口が波うっているのが特徴です。よくみると、表面に縄目の文様がみえます。
右上は、馬場川遺跡からみつかった土偶です。頭・乳房・左腕が欠損しています。
腹部や胸が大きく表現されていることから、妊娠した女性がモデルになっているようです。
下の写真は、日下遺跡からみつかった約2500年前の縄文人です。手足を折り曲げた姿勢で、穴の中に埋葬されていました。
弥生時代
約2400年前の弥生時代の人々は、本格的にコメづくりをはじめます。
これを契機にムラは、しだいに大きくまとまりはじめます。
常設展示では、瓜生堂遺跡の墓からみつかった棺や鬼虎川遺跡の木製の農具、銅鐸の鋳型、石製の武器などを観覧できます。
左上は、鬼虎川遺跡からみつかった建物跡。地面から突き出ている木は、建物の柱の根元部分です。
周りから木製の道具がたくさんみつかっています。
右上は、青銅製の銅鐸をつくるための石製鋳型片です。
鋳型には、銅鐸の文様が彫り込まれています。大阪府の文化財に指定されています。
右下は、瓜生堂遺跡からみつかった方形周溝墓。土盛りの上には、木棺や土器を転用した棺が埋まっているのがみえています。
左下は、瓜生堂遺跡から出土した土器を転用した子供の棺です。
古墳時代
約1700年前に大きな墓を盛んにつくる古墳時代がはじまります。
東大阪市内には約230基の古墳がみつかっています。
常設展示では、大賀世古墳群出土の埴輪や博物館周辺にある山畑古墳群からみつかった馬具や須恵器などの副葬品を展示しています。
左上は、西堤遺跡からみつかったウマの下あごの骨です。
生駒山の裾野にある集落跡からは、ウマの骨や歯が多数みつかっています。
右上は、山畑古墳群からみつかった鉄地金銅張りのウマの飾り金具です。
下は、山畑33号墳の発掘調査時の横穴式石室のようすです。
手前の平らな石は、凝灰岩製の組み合わせ式の石棺です。今は、消滅して見ることはできません。
奈良・平安時代
約1300年前に奈良や京都に都があった頃から東大阪市付近は、「河内国」と呼ばれるようになります。
生駒山の裾野にある集落跡からは、1列に並んだ建物跡や井戸のほか、墨で文字を書いた土器・まつりに使った土器などがみつかっています。
左上は、鬼塚遺跡からみつかった土師器で、土器の底に墨で「氏」と記されています。
右上は、池ノ端遺跡からみつかった須恵器の蓋のついた壷で、なかに火葬骨が多量につまっています。
下は、法通寺跡からみつかった寺の建物跡の土壇部分で、周囲から屋根瓦がまとまってみつかったようすです。
鎌倉・室町時代
約800年前の鎌倉・室町時代には、貴族にかわって武士が活躍しはじめ、新たな宗教も人々の間にひろがります。
生駒山の山腹には、新たに寺がつくられたり、城が築かれたりします。
展示では、水走遺跡の堤防跡や客坊廃寺跡・神感寺跡などからの出土品、若江城跡の瓦などを紹介しています。
左上は、水走遺跡の集落跡からみつかった3本の足のついた土釜です。
煮炊きに使ったため、外面は、煤が付いて真っ黒になっています。
右上は、暗がり峠の南側にある神感寺跡からみつかった青銅製の鏡です。
中央のつまみのまわりには、植物の文様がみえます。
左下は、生駒山の山腹にある客坊廃寺跡の建物跡です。左右に4個、上下に3個の礎石がならんでいるのがみえます。
見晴らしの良い生駒山の西側にある寺は、戦乱の際には、城としても活用されていました。
右下の写真は、近鉄若江岩田駅の南側にある若江城跡の堀の中に埋まっていた、建物の屋根瓦を組み合わせてならべたものです。
江戸時代
約400年前にはじまる江戸時代には、大和川の付け替えによって新田の開発がすすむとともに綿作が盛んになり、「河内木綿」が生産されます。
また、生駒山の西側の谷筋では、水車を利用した産業がおこってきます。
常設展示では、綿を糸に加工する工程や水車によって生産された製品などをみることができます。
上は、「河内木綿」を織るのに使われた、はたおり機です。左下の紺地の布には、鳳凰や桐が描かれています。
右下は、「河内名所図会」の挿絵で、暗がり峠のようすを描いた場面です。
明治時代以降
約150年前の明治時代から現在の東大阪市につながるあゆみをみていきます。
明治時代の教科書や民具、通貨、鉄道関連の資料など市民の方々から寄贈された道具類を展示しています。
左上は、明治時代につくられた木札で、東大阪市域が「堺県」とも呼ばれていたことがわかります。
右上は、昭和40年代の西堤付近で、農家の人がはねつるべを使っているようすが写っています。
左下は、昭和40年代に撮影された瓢箪山駅前の商店街です。
右下は、昭和39年に撮られた近鉄奈良線の新生駒トンネルの開通時の写真です。